この飛地カリーニングラード(州・都市)は第2次世界大戦まではドイツ領の飛地で、東プロイセンという州、その中心都市としてケーニヒスベルクがあった。
1255年、ドイツ騎士団の築いた城壁を中心に発達した。バルト海沿岸のほぼ中ほどにあり、1340年以降はハンザ同盟の有力な一員となった。なおドイツ騎士団とはローマカトリック教会の公認した騎士修道会の一つであった。
東プロイセン一帯はその間、ポーランドの属国(1466〜1660年)にもなったが、その後、ケーニヒスベルクはプロイセン公国の宗教、行政の中心地として栄えた。
1544年創立のケーニヒスベルク大学へは地元出身のカントも入学し哲学を学び、1770年には同大学の教授となり、大哲学者となった。
やがてプロイセンはドイツに統一されたが、第1次世界大戦で敗れた結果、ベルサイユ条約によって、東プロイセン州は飛地となった。それに不服だったドイツは、その後、間にある自由都市ダンツィヒ(現グダンスク)やポーランド回廊を制圧し始めた。これが第2次世界大戦のきっかけの一つとなった。
第2次世界大戦の終了後、ポツダム宣言により旧ドイツ領の東プロイセンは分割され、南部はポーランド領に、北部はソビエト連邦領になった。
それまでのドイツ系住民は東ドイツへと送還され、代わりにスラブ系ロシア人の入植者が送り込まれた。ケーニヒスベルクは1946年7月、ソ連の政治家M.I.カリーニンを記念して市名、州名とも「カリーニングラード」に改称された。いままで使われていた東プロイセン、ケーニヒスベルクの地名は消滅した。
東西冷戦後、旧ソ連の共和国(リトアニアなどのバルト三国他)は独立したため、カリーニングラードはロシアの飛地となった。この地域はロシアにとっては重要な不凍港である。プーチン大統領の元夫人の出身地でもあるためか、開発援助も積極的におこなわれたが、2013年の離婚後は不況になっている。
かつてのナチス・ドイツの飛地政策同様、ロシアも同様なことを起こしかねない。間にある国々はウクライナ戦争とも併せて不安を抱えている。
尚、参考文献として、2019年8月に亡くなられたドイツ文学者の池内紀氏著『消えた国 追われた人々 東プロシアの旅』(ちくま文庫)をお勧めします。著者は2002年から2008年にかけて現地を3回も訪れ、当時の関係者等から聞き取りした貴重なルポルタージュです。いつの世も戦争の一番の犠牲者は一般庶民なのです。その方々の貴重な体験談が心に滲み入ります。