「前口半田」は存在するか

「この地名、本当に存在するのですか?」ある読者から、こんな問い合わせを受けたことがありました。指摘されたのは、私たちが作った地図に載っていた与論島の「前口半田」という地名です。

あわててGoogleで検索してみますが、たしかに、ネット検索では一切出てきません。検索に引っかからないとなると、いかにも怪しい、……。正直、最初は「誤植かもしれない」と肝を冷やしました。しかし、弊社の地図では、昭和60年代に刊行した百科事典付属の地図帳の時代から掲載されている地名なのです。でも、もし昭和60年代の地図帳も、そもそも誤植だったとしたら?

誤植の可能性が頭から離れず、冷や汗が流れます。ところが、念のため国土地理院の古い地形図を調べてみると、昭和60年発行の25,000分の1地形図に、「前口半田」が載っていたのです。やった! よかった!

昭和60年発行の国土地理院地図には、はっきりと「前口半田」という文字が見える。出典:昭和60年3月30日発行「国土地理院地図」。地図上に場所を指示して作成。
昭和60年発行の国土地理院地図には、はっきりと「前口半田」という文字が見える。
出典:昭和60年3月30日発行「国土地理院地図」。地図上に場所を指示して作成。

特殊な地形を名付けた地名らしく、現在の地理院地図にも、地名表示こそありませんが、地形表現は残されています。

赤く囲んだ部分が「前口半田」のだいたいの位置。出典:国土地理院「地理院地図」。地図上に場所を指示して作成。
赤く囲んだ部分が「前口半田」のだいたいの位置。
出典:国土地理院「地理院地図」。地図上に場所を指示して作成。

「半田」を調べると、どうやら崖のようです。

『民俗地名語彙辞典』(ちくま学芸文庫)には、「ハンタ」という項目があり、

喜界島で、陸上で断崖のこと。……与論島でも断崖をハンタという。

とあります。

与論町役場への電話

さらに念を入れて、与論町役場に電話をかけてみます。担当者の方が、「ちゃんと存在しますよ」と答えてくださったばかりか、現地の写真まで送ってくださいました。すばらしい対応に感謝です。

役場の方の説明によると、該当の場所近くの道路整備がすすみ、景観が見やすくなったそうです。今は、看板などは設置してないけれども、なかなかの絶景なので、ぜひたくさんの人に来ていただきたい、ということでした。

「前口半田」の現地写真。与論町役場の方に送っていただいたもの。道が写真中央から少し右で三股に分かれているが、その一番左の道の左側一帯が「前口半田」のおおよその位置。左上に5階建ての「サザンクロスセンター」が見える。©与論町役場
「前口半田」の現地写真。与論町役場の方に送っていただいたもの。道が写真中央から少し右で三股に分かれているが、その一番左の道の左側一帯が「前口半田」のおおよその位置。左上に5階建ての「サザンクロスセンター」が見える。©与論町役場

少し補足すると、現地での読みは「マエグチハンダ」ではなく「メーグチパンタ」だそうです。ネットの検索では出てこなくても、「前口半田」という地名は本当にあったのです。『難しい地名もスラスラ読める! ふりがな日本地図帳』の109頁の与論島には、この地名が掲載されています。もちろん、ふりがなも振ってあります。

この一件で痛感したのは、「ネットに出てこない=存在しない」という短絡的な思い込みの危うさです。当たり前のことですが、インターネットでの検索は便利でも、それですべてが拾えるわけではありません。

ペーパータウン

今回の調査で改めて感じたのは、地名の「実在」をめぐる問題の奥深さです。

実は、地図の世界には「実際には存在しない地名」をあえて載せることがあるのです。いわゆる「トラップ地名」(「著作権トラップ」などとも言われます)です。出版社が自社の地図を不正コピーされたときに、独自の偽地名が他社の地図に掲載されていれば、それは盗用の証拠になる、というわけです。

アメリカでは、実際にそうした偽地名をめぐって訴訟になったこともあるそうです。

訴訟になったのは「アグロー」という地名で、地図製作者のオットー・G・リンドバーグとアーネスト・アルパーズが、ニューヨーク州の地図に、2人の名前のイニシャルを並び替えた「Agloe」という架空の地名を載せたことが発端でした。ところが、別の出版社が地図を出版した際に、その地図にも「アグロー」が載ってしまい、訴訟に発展したのです。この詳しい経緯は、2015年に「朝日新聞」の記事で紹介されています。

この地名をモチーフにした小説をジョン・グリーンという作家が書いています。題名は『ペーパータウン』。タイトルの「ペーパータウン」は、まさにこうした「地図にしか存在しない町」のことです。

翻訳が、金原瑞人さんの名訳で岩波書店から出ています。『ペーパータウン』(STAMP BOOKS)です。

主人公クエンティンが想いを寄せる幼馴染みのマーゴは、恋人(クエンティンではない)が二股をかけていたことを知り、仕返しのイタズラをしかけます。そのときの相棒に、こともあろうか、彼女に密かに想いを寄せているクエンティンが選ばれます。夜通しのイタズラに付き合ったクエンティンは、2人の関係が少し変わったと感じ、今後の彼女との関係に淡い期待を抱きます。しかし、翌朝、マーゴは、

アナタハ ペーパータウンへ イク。
ソシテ ニドト モドッテコナイ。

という謎の言葉を残して、突然、みんなの前から姿を消します。クエンティンは、マーゴが残したこの謎の言葉を手がかりに、彼女の行方を追うというのが、この物語の後半の展開です。

全体としては、クエンティンがマーゴへの淡い恋心を抱きつつ、魅力的で奔放な彼女に翻弄される姿を描く、いわゆる「青春物語」ではあるのですが、マーゴが書き残した謎をクエンティンが解いていくプロセスが、マーゴへの彼の想いの変化に重ねて繊細に描かれていて、とても面白いのです。映画化もされました。Amazon Primeで視聴可能です。

なお、作品のモデルになった「アグロー(Agloe)」には、実話の続きがあります。架空の町アグローを舞台にしたこの小説がヒットしたことを契機に、その場所に「アグローへようこそ!」という看板が現れ、「架空の地名が実在?になった」という逆転が起きたのです。GoogleMapのStreetViewで、この看板は見ることができます(2026年6月12日現在)。詳しくは先ほどの「朝日新聞」の記事に紹介されています。

しかし、「前口半田」は、このようなトラップ地名ではなく、まぎれもなく実在します。

その確認に至るまでの今回の道のりは、ちょっとしたミステリーを読んでいるようでした。地図には、ネット検索ではたどり着けない「地名」が残っています。こうした名前を拾い集めることも、地図をつくる仕事の醍醐味だとあらためて感じた出来事でした。