山口県下関市と福岡県北九州市の間、関門海峡に、小さな島があります。この島の名を、多くの人は「巌流島がんりゅうじま」と呼びます。1612年、宮本武蔵と佐々木小次郎が決闘を行った、あの島です。じつは、この島本来の地名は「船島ふなしま」といいます。

『日本歴史地名大系』の「船島」の項目には、以下のように書いてあります。

島の形から船島と称されるが、慶長一七年(一六一二)宮本武蔵と佐々木巌流(小次郎)が試合をしたといわれ、巌流島の名で知られる。古河古松軒の「西遊雑記」には「宮本武蔵之助といひし刀術者と佐々木岩竜武芸の論をして、此島において刀術のしあひをして、岩竜宮本が為に打殺さる、ゆかりの者ありて岩竜が墓を建てしより土人岩竜島と云」とある。

(『日本歴史地名大系』「船島」

「島の形から船島と称される」とありますが、現在は埋め立てられ、もはや船の形には見えません。「船島」という名が忘れられた理由のひとつかもしれません。

ところで、「巌流がんりゅう」とは、佐々木小次郎が創始した剣術の流派名です。決闘で敗れた小次郎の流派名が、そのまま島の名になったわけです。「西遊雑記」にある「岩竜」は、「巌流」を別の漢字で書いたものと考えられます。

武蔵がなぜ決闘に遅れたのか、という問いを考えるにあたって、まずはこの島が浮かぶ「関門海峡」という場所に目を向けてみましょう。

東西に逆転する、日本有数の急潮

関門海峡は、狭いところではわずか約600mという本州と九州を隔てる水道です。この狭さゆえに、潮の流れがボトルネックとなり、大潮のときには時速18㎞を超えることもあります。しかも、潮の干満によって流れの向きが東西に逆転するのです。

関門海峡海上交通センターのサイトでは、火ノ山下潮流信号所の測定値で、ほぼリアルタイムに潮の流れの速さや向きなどの情報を見ることができます。その潮流情報に「流向」という項目があり「東西」も表示されます。

関門海峡海上交通センターの関門海峡の潮流情報
関門海峡海上交通センターの関門海峡の潮流情報

関門海峡は、日本で最も潮流が速い海峡の一つで、S字型に曲がって行き合う船も見えにくく、航海者には大変な難所として知られていました。これは現代にいたっても同じです。関門海峡を通過する船には「水先人みずさきにん(パイロット)」と呼ばれる専門家が乗り込み、潮の向きと速さを読みながら安全な航路を導いています。

潮の逆転が勝敗を決めた?

この海峡の東口にあるのが、壇ノ浦だんのうらです。1185年(文治元年)、源平合戦の最終決戦がここで行われました。

『世界大百科事典』はこう記します。

彦島ひこしまを発した平氏の軍船500余艘と長門壇ノ浦で遭遇し,正午ころから激しい戦闘状態に入った。はじめは東進する潮流に乗った平氏方が有利だったが,途中から潮が逆流に転じ,結局,午後4時ころには平氏の敗北・滅亡が決定した。安徳天皇は海底に没し,平教盛,知盛ら一族の多くも入水あるいは戦死した。

(『世界大百科事典』「壇ノ浦の戦」)

潮流逆転の影響については諸説ありますが、その帰趨にある程度の影響があったのは想像できます。先ほど、潮の流れの方向を観測する場所は、火ノ山下潮流信号所と書きましたが、この場所こそ、まさに壇ノ浦のすぐ近くなのです。

400年後、同じ海峡に浮かぶ小島での決闘

壇ノ浦の戦いから約430年後の1612年。この同じ海峡に浮かぶ小島で、もう一つの歴史的な対決が行われました。宮本武蔵と佐々木小次郎による巌流島の闘いです。

この闘いの描き方には、さまざまなパターンがあります。武蔵が決闘の時刻に遅れてきたというのは、吉川英治の描くところです。しかし、武蔵の養子・伊織が建てた小倉碑文には「両雄同時相会」とあり、遅刻そのものを否定するような記述もあります。

地元の細川藩に仕え、小倉(現・北九州市)に腰を落ち着けていた小次郎と、各地を遍歴していた武蔵とでは、この海峡での小舟の扱いについて習熟度に差があったのかもしれません。

地図で確かめると、当時武蔵が逗留していた小倉から船島(まだ「巌流島」ではありません)は、目と鼻の先ほどの距離です。しかし、流れが速く、しかも時間によって東西に逆転する潮の中のことです。近いとはいえ、小舟で渡ること自体、思いのほか困難だったはずです。

火ノ山下潮流信号所の実測値による、ある一日の潮流の変化のグラフ
火ノ山下潮流信号所の実測値をもとに、ある一日の潮流の変化を記録したもの。東向きの流れ(東流)を+、西向き(西流)を-で示しています。重ねた帯は、史料に残る各決戦の「時間帯」の目安です(灰色の帯=巌流島の決闘・約束8時〜武蔵到着10時/赤色の帯=壇ノ浦の戦い・正午〜16時)。このグラフで示したいのは、関門海峡では一日のうちに潮の向きと速さがどれほど劇的に変わるか、という事実です。(※2026年6月25日現在の観測値であり、当時の潮流を再現したものではありません。帯が示す時間帯はあくまで時刻の目安で、その日の潮を当てはめたものではありません。)

現在の潮流データをグラフ化してみました。

決闘の約束は辰の刻(午前8時)でしたが、武蔵が島に着いたのは巳の刻(午前10時)だと言われています。武蔵が九州の小倉側から船島へ渡ったとすれば、東向きの潮に乗る必要があります。

グラフを見てみると、午前8時(06/25 08:00)には、潮は西向き2ノットです。この時刻は、潮の変わり目近くでもあり、潮流が急速に変化していますので、午前8時に船島に着くために7時30分に海に出たとすると、潮は西向きで3ノット前後あったことになります。人がオールで小舟を漕いで進むには、通常2~3ノットくらいの逆流が限界と言われていますので、いくら武蔵といえども、船島に向かうのはかなり困難だった可能性があります。ところが、午前10時(06/25 10:00)には、潮は東向き約6ノットに変わっています。10時前なら楽に巌流島に着いたでしょう。

潮の満ち引きは、月の満ち欠けに大きく影響され、日によってタイミングがずれるため、800年前、あるいは400年前の戦いのその日に、潮がどちらへ、どれほどの速さで流れていたかを正確に言うことはできません。

それでもこのグラフは、関門海峡という海が、1日のうちに何度も流れの向きを変える、きわめて特異な場所であることをはっきりと教えてくれます。壇ノ浦で潮が逆転したという記述も、武蔵が到着に手間取ったかもしれないという推測も、この潮目の変わりやすさを抜きには語れないのです。

もっとも、武蔵がどこから漕ぎ出したのかにも諸説あり、小倉ではなく下関側から渡ったとする言い伝えもあります。出航地が変われば、味方になる潮の向きも変わります。決闘の細部は、語り継がれるうちに幾通りにも枝分かれしてきたのです。

結局、武蔵遅刻の真相はわかりません。心理戦として意図的に遅れたのか、それとも潮流に苦しめられたのか。巌流島の地理的条件は、そのどちらもあり得ると思わせます。

関門海峡の歴史を見れば、ひとつの自然が、日本の歴史に深い影響を与えてきたことが分かります。まさに海峡の急潮が、壇ノ浦、巌流島を舞台にした闘いの「潮目を変えた」のです。